昭和五十四年十一月二十九日 朝の御理解

 御理解第二節 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」


 今、教団で一番求められておるもの、また神様が一番求めてござるもの、ということは勿論、人が助かるという事でありますけれども、みてる事のないおかげ、そのみてる事のない程しのおかげを受ける為には、誰でもが神徳を受けなければならない。信心をすれば誰でも神徳を受けられる信心をしなければならない。その誰でもが受けられる信心を、いよいよ詳らかにしたのが合楽理念だと思います。
 金光教が始まって百年。御徳を受けた、という人は、それこそ数えるほどだと思うです。ただおかげを受けてきた、という人は、も、どれほどあるかわかりません。けれども御徳を受けて、しかもあの世までも持って行き、この世にも残しておかれた、というような信者、教師を問わず、誰でも受けられる、と言われる、その神徳を受けていない、というところに神徳の頂けにくい難しい事になっておった事が過去百年のお道の信心であった。
 それを合楽では、も、誰でもが、その気になればおかげが受けられる。誰でもが、その気になれば御神徳が受けられる。そういう信心の、いわば開発ともいう事が、今、合楽ではなされており、それを実験して成程そうだな、と実証を現わしておるのが合楽教会です。ね。
 火の行水の行したりする事はない。いやむしろ、それはもう過去の宗教がやって来た。金光教でも、なら、ま、やっておる人ですらある。またやって来たわけですけれども、ね。どこ迄も、ね、神様の心を心とするという生き方。それをいうならば天の心地の心とこういう、ね。
 その天の心地の心というのは、も、大変な難しい事のように、深い、それこそふかーいものと、所にある、と思うておる。それが合楽では、もう身近になそうと思えば、今、只今からでも、それに実行する事の出来れる教えが合楽理念なんです。それで教団でも、今一番求めておるのは何かというと頂く信心から生みなす信心と言われております。
 だから過去の信心は、頂く信心であったから御徳が受けられなかったという事になったわけです、ね。私は教団人全部がね。そこを語らないかんと思う。スローガンは素晴らしい。頂く信心から生みなす信心。だから過去の信心は、だから頂き信心であった、と。おかげもらいの信心であった。も、それこそ御徳を受けて来た、というのは、も、数える程しかなかった。
 それをいうならば教祖金光大神の信心の御内容というものが段々詳らかにされて、わかってくればわかってくるほど、なら御神徳を受ける信心とは結局、天地日月の心になること肝要とはっきり教えておられる。それを詳らかにし、それを誰でも取り組む事が出来るように教える、という事が大事だ、という事になって来た、ね。いうならば一人よがりの信心。
 一人だけは、はあ信心ちゃ有難いと悦に入っておる、ね。それは私は本当なもんじゃない、ね。神様と私共が喜び合えれる信心、合楽し合えれる信心。だから皆さんがね。合楽に通うてきても、そこに着眼をし、そこに、いうなら実験実証の焦点を置かなきゃいけんのです、ね。
 どうぞお願いします、とお取次を願った。おかげを頂いて広大なおかげを頂きました。これだけならば過去百年の金光教が繰り返し繰り返しやって来たわけなんです。けど、それでは徳にはならなかった。それではあの世に持って行く、この世に残しておく、というものにはならなかった。
 そこで、いわば一つのスローガンというものが教団で打ち立てられた。それは頂く信心から生みなす信心。そんならどうしても合楽理念が教団の中に浸透していって、ね。合楽し合えれる、神様と合楽し合えれる、ね。神様との、いうならば本当の交流がなされて、そこから限りない、ね、みてるという事がない、という。
 今日の御理解で言うと、みてるという事がない無尽蔵、限りないおかげの世界、ね。そのおかげの世界の、その顕現、それを私は御神徳とこう思います、ね。しかもその御神徳は、成程誰でも受けられる。その気になれば、と、ま、しきりに説いておるのが、今の合楽理念なんです。
 ですから皆さんがやはり、はあこれが御神徳というものか、というものをね、頂いて行って、その実験して行って確かなものにしておいでられないと、ただ合楽で、いうならば言うておる、という事だけに留まってしまうんです。
 そこでなら、ここでは天の心を詳らかに、また地の心が限りなく広く深く説かれているわけなんです。どうでも私共の信心の内容がです。いうなら天の心地の心、そしてそれが貫かれる日月の心。いわゆる実意丁寧神信心がそこになされなければならんという事になります。その生みなす信心をです。とんでもないところに焦点を置いておったんでは、いつまでたってもおかげは頂けん。御神徳に触れられる、という事はない。
 昨日ある教会の御信者さんと御一緒に安藤さんがお参りになられたんですけれども、もう永年の信心をして毎月御本部参拝を欠かした事がない。月一日には、その家の方の霊神様の霊神祭を仕えられる。一日は祈願祭と、いわゆる感謝祭を必ず先生に来て頂いて、これは毎月、月の初めにそれをなさる。
 ところがここで御信心を頂いとる誰かが、誰か知りませんけれども、そげなこっちゃおかげ頂かれませんよ、ち言うたち。毎月如何にも信心が手篤い。御本部参拝を毎月しておる。信心が手篤いごたる。毎月、月の初めには祈願祭感謝祭、そしてその家の自分の家の霊祭の慰霊祭を先生に来て頂いてお祭りを続けて、もう永年それを続けておるという。
 そしたら、ここの御信心を頂いとる人が、そげなこっちゃおかげ頂かれませんよ、と簡単に言うてのかした。そげん言えば何十年経ってるばってん段々困っていくばっかりのような感じなんです、ね。だから私共がね、私共過去百年の信心の中で鍛われてきたもの、教えられてきたものは、大体そういう事だったようですね。霊様のお祭りを大事にせな、神様、親先生に毎月来てもろうて宅祭りをしてもらわな。
 月々必ずどんな事があっても御本部参拝だけは欠かした事がない。いかにも篤信のようにある、ね。けれどもそれではね、おかげが受けられない徳が受けられない。そういう事で事足りたような信心が何十年続けられても駄目。もう日参が何十年続けられておる、というような方達が、ま、古い教会には必ず一人二人はあるものです、ね。
 小刻的にやっぱりおかげを感ずるからお参りをしとられるのでしょうけども、それでなら徳を受けられた、というふうには見えない。もう一事が万事に、この程度の信心が、から生みなそうとしたところで生みなされるおかげは生まれてこない。
 最近私は不思議に何か知らんけれども悲しゅうなる。もう物悲しい、どういう事でしょうか、ね。それはね。日々信心の稽古をさせて頂いておっても、いろんな事がありますよ、と。淋しい事もありゃ、苛立つ事もあるしね。いつも晴天という事はありません。曇る日もありゃ、それこそ物悲しい涙のこぼれるような事もあるけどね、あるけれども合楽で信心させて頂いとるとね。けれども有難い、という答えが出てくるですよ、と私は申しました。
 なぜでしょう。合楽で信心させて頂いておると、ね。淋しかったり、いうなら腹立たしい事があったり、ね。もう昨日は竹葉会の信心実習が田主丸の上にある。私はあんな料亭が出来とるという事は全然知りませんてせした。立派な料亭が出来ております。そこでまあお食事呼ばれて帰ってまいりましたが、私はもう一足早く帰って来てよかったと思った。
 今言う、私でなからなきゃならんという人がいっぱいここにはその、もう帰って来なさろう帰って来なさろうと待っておって下さった。その中のお一人なんです、ね。そういう物悲しいとかイライラするとか言ったような時に、答えが有難いというふうに、どういうふうな信心をさせてもろうたら頂けるでしょうか、と言われるから私が申しました。
 ここでは土の信心という事が言われるんです。いうなら土の心を心として行こうとする。地の心を心とする、という生き方なんです。どんなに淋しい時でも悲しい時でも、じっとそれを耐えて忍んでいくというだけではなくてです。その事を神様の御神愛としてです。私共がそう頂けませんけども、神愛と思うて、それを黙って治める、という生き方を身に付けてまいりますとね。
 それに例えば今日も、どんよりと今にも降りそうな曇ったお天気でしたけれども。も、それが暑くもない寒くもない日も照らん、丁度よか加減で、まあ外でお茶でも頂かしてもらう、ね。なら今日は、もうこんなに曇りやったけんで、ち言う事はない。曇りであったからよかった、とこう思うて帰って来たんですけれども、曇っても、いやそれは降っても帰り出したら、パラパラお湿りがあり出した、と、ね。
 どんな場合であっても、それを根本的に神愛と、わからしてもらえれる信心を日頃していく、またそれがそう神愛である、とわかる事の為に、本気で土の信心をしてごらん。あなたのそういう信心の悩みは解決するよ、と言うて話た事でした。だから私は、もう来月から御本部参拝はせん。その先生に来てもろうちから、そげなお祭りはやめて、合楽一本になりたいと思います。
 ま、それはちょいと待ちなさい、と、私が。合楽の信心を、もっと本当にわからしてもろうて、ね。おかげを頂いて、それこそ信心を、いわゆる求道する、道を求める、という事は有難い事ですから、合楽に通うて来てもよいですけども、そうまあ一遍たくりに、それをなさる。実行に移す、という事は有難い。
 いや実は私は心には、ウンそいがよかばい、ち、言おうごたったけれども、そしたらまたいけませんからね。また評判が悪うなる、と思うから、ま、そんなふうに申しましたけれども、ね。実際は、そうでなからな助からんです。合楽理念合楽理念と言いすぎる、と例えば言うても、も、合楽理念をもっといい足らんように思います。今聞いて頂いたように、御神徳を受ける、という。
 誰でも受けられるというのに、いうならば頂く信心から生みなす信心とはどういう信心か、という事を求めようとしてない、ね。誰だって同じ事で、神様でもです。んなら人間でもそうです。私の心を心として私に、なら帰依してくるならば、私との交流が生まれないはずがない。またそれを私が喜ばないはずがない。天地の親神様の心がここだ、というところを掴ませて頂く、握らしてもらって、その心にならせて頂こうと精進するなら、神様が喜びなさらんはずがない、です。
 神の心を心とする。大変難しいようですけれども、実際はそうではない。もうなそうと思へば直ぐからでも、それが実行できる。なら、その方に私が申しました。ひとつ土の信心を本気でひとつ、いわば実験して見てごらんなさい。必ず、ね、どんな場合であっても答えが有難いなあ、こんなにまでして神様が教えて下さるんだ、育てて下さるんだ、という事がわかってくるよ、と言うてお話しましたように、ね。
 今、教団で一番求められているものは、本当言うたら、合楽で言われておる信心を教団全体の方達がです、ね。その気になられるようなおかげを頂かれたら、そこから神様との、いうなら交流が始まるです。いわゆる合楽の世界が開かれるです。そこから限りなく生みなされてくるようなおかげが頂けた時に、初めていうならば御神徳は誰でもが受けられる、という事になるのじゃないでしょうか、ね。
 また御神徳は限りがない、ね。その限りない御神徳を、いよいよ積みにも積んで、頂くにも頂き続けて、ね。あの世にも持って行くける程、教祖様はなるほど嘘はおっしゃってないなと、いう事を思います、ね。それがね、今申しますように悲しい事がある淋しい事がある、痛い思い苦しい思いがする事がある、ね。
 もう本当に、例えば、ね。本気で喉が乾かなければ、お水の有難さはわからんです。そしてこれは喉が乾くという事は素晴らしいな、こういうお水の味わい、という、ね、ものはわからないようなものです。どうもないでは芯の有難さはわかりません、ね。だからそこに痛いとか痒いとかいう様々な事があります。その事を通して、ね。その事がこんなにも有難いもんだ、とわかるんです、ね。
 そこから一つお互いの信心がです。いよいよ、ね、御神徳の頂けれる信心に切り替えられる。合楽に通うて来ておっても、ならそういう天の心地の心というような心の状態を自分の心にも頂こう、というね、意欲がなかったら、それはやはり同じ事です。過去の信心は熱心に金光教の、日参をする。そして段々信心が、ま、自分では向上してきた、と思うのでしょう。
 御本部参拝は絶対。毎月、月に一回感謝祭をする。慰霊祭をする。とても立派なごとある。けれども苦しい事はいつまでも尽きないわけです。その苦しい事を通して、ね。いうならば天の心地の心、いうなら合楽理念の実験実証していくところから、ね。初めていうなら神の心が心として通うてくる。いうなら神との交流が始まってくる、ね。
 交流して初めて、そこから思いもかけないものが生みなされてくる。そういうおかげがあの世にも持っていけるのです。この世にも残しておけるのです。ただどうぞ、と、頂く信心からは生まれて来ません、ね。なら生みなす信心と、生みなす為には、どうでも合楽理念のマスターより他にないです、ね。
 神様と私共の合楽し合えれる世界。その手立てがなら日々詳らかに、ますますなされていくわけでございます。だからかつがつ、それを自分のものにして行かなければならない。一番神様が願ってござるもの。一番教団で、今願われておるもの、というような事を今日は、合楽理念によって頂いて頂きました。どうぞ